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祝いと呪い以外のすべて

わかりにくさの海へ

言語表現や身体技巧の向上はすなわちわかりやすさへ向かおうとする飽くなき上昇であって、内なるわたしはまったくもって真逆の指向性、過去が現在が虚構が神話が伝承が日常があなたがわたしが渾然一体と澱になり沈殿していく、わかりにくさの海底へと仰向けのまま沈んでいくことを好ましく感じている。わたしが言いたいのはそれだけだ。ということにわたしは何度も気が付いてしまう。安い長靴を履いて熱帯性植物の多重多層に生い茂る湿地帯に一歩また一歩と分け入るような自意識への探検。拾った珍しげな石片なりしっとり水分を含んだ葉なりを大切にビニール袋へ入れて持ち帰った瞬間、体験は欠損し、名札付きの何かに変わる。言語化しえない、なづけえない体験を加工せず火もとおさずそっくり生のままパブリックな場所に持ち出して大衆と対決したい。経験を破壊せず、混沌を放棄せず、わかりにくさをかぎ括弧から解放したい。疑問符と感嘆符を乱暴に練り込んだパンケーキをゆっくりと味わい尽くしたい。わたしが言いたいのはそれだけだ。ということにわたしは何度も気が付いてしまう。

“見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる、ということ”― コヘレトの言葉7:29